

前回は、7つの王国が並び立つ「アングロサクソン七王国時代」をご紹介しました。9世紀になると、ブリテン島はさらに大きな脅威にさらされます。海の向こうから、戦士たちを乗せた船団がやってくるようになったのです。「ヴァイキング」の時代の始まりです。
目次
まず整理:この時代に何が起きたのか
最初に全体像を3つのポイントで押さえておきましょう。
- 誰が来たのか → 北欧(主に現在のデンマーク)から来た、ヴァイキングと呼ばれる海の戦士たち
- 何をしたのか → 最初は略奪、やがて征服・定住へ。イングランド東部・北部の王国を次々と制圧した
- 何が起きたのか → 唯一ヴァイキングに屈しなかったウェセックス王国との間で国境線が引かれ、「デーンロウ」という支配地域が生まれた
ヴァイキングとは何者か
「ヴァイキング」とは、8世紀末から11世紀にかけて、船で海を渡ってヨーロッパ各地に進出した北欧の人々の総称です。現在のノルウェー・デンマーク・スウェーデンにあたる地域の出身者が中心でした。ブリテン島を襲ったのは主にデンマーク系のヴァイキングで、当時のイングランド側からは「デーン人」とも呼ばれていました。
彼らは「ロングシップ」と呼ばれる、吃水の浅い(=川をさかのぼりやすい)細長い船を使い、奇襲的に沿岸部や河川沿いの町を襲撃しました。目的地に予測がつきにくく、しかも逃げ足も速いため、当時のアングロサクソン人にとっては非常にやっかいな相手だったのです。
793年、リンディスファーン襲撃―最初の衝撃
ヴァイキングによる最初の大規模な襲撃として記録されているのが、紀元793年、ノーサンブリア沖の小島にあった「リンディスファーン修道院」への襲撃です。この修道院は当時のキリスト教世界でも有数の学問の中心地でしたが、ヴァイキングたちは修道士を殺害し、財宝を略奪して去っていきました。
当時の人々にとって、聖なる場所である修道院が襲われたことは大きな衝撃でした。大陸にいた学者アルクィンは、この事件を「神の怒り」になぞらえる手紙を書き残しています。翌794年には、近隣のジャロー修道院も同様に襲撃されました。
この後しばらくは、ブリテン島やアイルランドの沿岸各地で、散発的な略奪襲撃が繰り返される時代が続きます。
865年、「大異教徒軍」の襲来―略奪から征服へ
転機となったのは、紀元865年のことです。それまでの小規模な略奪とは異なり、複数のヴァイキング勢力が結集した大軍勢が、征服を目的としてイースト・アングリアに上陸しました。アングロサクソン年代記はこれを「大異教徒軍」と記しています。
豆知識:伝説の「血の鷲」の逸話
大異教徒軍を率いた指導者の一人、イヴァル(骨なしイヴァル)については、父ラグナル・ロズブロークの処刑への復讐のために遠征したという伝説がよく知られています。ただし、この話は後世のサガ(北欧の物語文学)に基づくもので、史実としてどこまで正確かは研究者の間でも意見が分かれています。興味深い逸話ではありますが、史実と伝承は分けて捉える必要があります。
大異教徒軍はその後、次々とアングロサクソンの王国を攻略していきます。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 865年 | 大異教徒軍がイースト・アングリアに上陸 |
| 866年 | 北部の要衝ヨーク(ヴァイキング名:ヨルヴィク)を占領 |
| 869年 | イースト・アングリアを征服。エドムンド王が殺害される(後に聖人として崇敬) |
| 870年代前半 | マーシア王国も事実上の支配下に |
ノーサンブリア、イースト・アングリア、マーシアという有力な王国が次々と陥落し、7王国のうち唯一踏みとどまっていたのが、南西部のウェセックス王国でした。
ウェセックスの抵抗―アルフレッドと絶体絶命の冬
ウェセックス王国を率いていたのが、後に「大王」と呼ばれることになるアルフレッドです。紀元878年1月、ヴァイキングの指導者グスルムは、キリスト教の祝日(公現祭)で油断していたウェセックス軍を奇襲し、アルフレッドは少数の従者とともに南西部の湿地帯アセルニーへと逃げ込むことになります。一時は王国そのものが滅亡寸前の状況に追い込まれました。
しかしアルフレッドはここから態勢を立て直し、各地から兵を集めて反撃に転じます。アルフレッドの詳しい人物像や、その後のイングランド統一への歩みについては、次回あらためて詳しくご紹介します。
878年、エディントンの戦いとウェドモアの和議
紀元878年5月、アルフレッド率いるウェセックス軍は、ウィルトシャー州エディントンでグスルム率いるヴァイキング軍を撃破しました。追い詰められたグスルムは降伏し、キリスト教への改宗を条件とする和平協定「ウェドモアの和議」が結ばれます。グスルム自身も洗礼を受け、アゼルスタンというキリスト教名を名乗りました。
この和議を土台として、紀元878年から890年頃までの間に「アルフレッドとグスルムの条約」という、より詳細な取り決めが結ばれたとされています。この条約では、ウェセックス側の領土と、ヴァイキング側が支配する領土との境界線が明確に定められました。
デーンロウの成立―「デーン人の法が通用する地域」

この条約によって、おおよそロンドンからチェスターを結ぶ線の北東側は、ヴァイキング(デーン人)の支配地域として認められることになりました。この地域は、後に「デーンロウ(Danelaw、直訳すると「デーン人の法」)」と呼ばれるようになります。
ただし「デーンロウ」という呼び名自体が地理的な地域を指す言葉として使われるようになったのは、実は11世紀に入ってからのことです。当時その場所に住んでいた人々が「ここはデーンロウだ」と自称していたわけではない点には、注意が必要です。
デーンロウの中でも特に、レスター・ノッティンガム・ダービー・リンカン・スタンフォードという5つの町は「ファイブ・ボロウズ(5つの自治都市)」と呼ばれ、ヴァイキングの軍事・行政拠点として重要な役割を果たしました。また北部の拠点ヨーク(ヨルヴィク)は、ヴァイキングの交易都市として大きく発展し、ヨーロッパ各地とつながる重要な港町になっていきます。
一方、デーンロウの外側、南部・西部にあたるウェセックスと、その西隣のマーシア西部は、引き続きアングロサクソン側の支配が保たれました。この「2つの勢力圏が並び立つ」状態が、次の時代を通じてのイングランド統一の出発点になっていきます。
この時代の名残は今のイギリスのどこに見られるか
デーンロウだった地域には、今でも古ノルド語(ヴァイキングの言葉)に由来する地名が数多く残っています。たとえば「-by」で終わる地名(ダービー、グリムズビーなど)は古ノルド語で「集落・町」を意味し、「-thorpe」で終わる地名(スカンソープなど)は「小さな村」を意味していたとされています。また英語の日常語にも、「sky(空)」「window(窓)」「knife(ナイフ)」など、ヴァイキングの言葉に由来するとされる単語が数多く残っています。ヨークの街には今も「ヨルヴィク・ヴァイキング・センター」という体験型博物館があり、留学中に訪れてみるのもおすすめです。


