

紀元43年、ローマ帝国はブリテン島への本格的な侵攻を開始しました。以後およそ370年にわたり、ブリテン島の南部と中部はローマ帝国の一属州「ブリタンニア」として支配されることになります。道路網、都市、公衆浴場といった今日のイギリスにも痕跡を残すインフラの多くは、この時代に築かれたものです。今回は、ローマによる征服からブーディカの反乱、ハドリアヌスの長城、そして支配の終焉までを見ていきます。
目次
侵攻の背景―クラウディウス帝はなぜブリテン島を目指したのか
ローマとブリテン島の関わりは、紀元前55年・54年のユリウス・カエサルによる遠征にまでさかのぼります。ただしこのときは短期間の遠征に終わり、本格的な征服には至りませんでした。その後1世紀近くにわたり、ローマは南部ブリテンの一部の部族と友好関係を築き、交易を通じて関係を深めていきます。
状況が動いたのは紀元41年、カリグラ帝の暗殺を経てクラウディウスが皇帝に即位してからです。ローマの友好勢力であったアトレバテス族の王ウェリカが、カトゥウェラウニ族によって追放される事件が起こり、これが侵攻の口実となりました。加えてクラウディウス自身も、即位直後の不安定な政治基盤を軍事的成功によって固めたいという事情を抱えていたとされています。
紀元43年、ローマ軍の上陸とブリタンニア属州の成立
紀元43年、将軍アウルス・プラウティウスに率いられた4個軍団・約4万人のローマ軍がケント地方に上陸しました。ローマ軍はメドウェイ川、テムズ川での戦いでカトゥウェラウニ族を破り、その首都カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を制圧します。クラウディウス帝自身もこの占領に立ち会い、皇帝としての軍事的名誉を手にしました。
その後もローマ軍は勢力を拡大し、紀元47年頃までにはエクセターからハンバー川にいたる南部・中部一帯を制圧します。カトゥウェラウニ族の指導者カラタクスは南ウェールズへ逃れて抵抗を続けましたが、紀元51年に捕らえられ、ローマへ送られました。伝えられるところでは、カラタクスは元老院での演説によってその堂々たる態度をローマ人に印象づけ、処刑を免れて余生を送ったとされています。
諸説あり:侵攻の「本当の理由」
クラウディウスの侵攻の動機については、政治的名誉の獲得、ブリテン島の鉱物資源(錫や鉄など)や奴隷の確保、大陸のガリア反乱勢力を匿っていたことへの対処など、複数の要因が複合的に働いたとする見方が一般的です。単一の原因に単純化しすぎない理解が求められる分野です。
ブーディカの反乱―女王が率いたローマへの抵抗

ローマ化が進む一方で、征服された部族の不満は根強く残っていました。その象徴的な出来事が、紀元60〜61年頃に起きた「ブーディカの反乱」です。東部ブリテンを治めていたイケニ族の王プラスタグスは、死去に際して王国の半分をローマ皇帝に、残りを2人の娘に相続させる遺言を残していました。しかしローマ側はこれを無視して王国を接収し、妻ブーディカを鞭打ち、娘たちに暴行を加えたと伝えられています。
この仕打ちに激怒したブーディカは、イケニ族やトリノヴァンテス族などを率いて蜂起し、カムロドゥヌム(コルチェスター)、ロンディニウム(ロンドン)、ウェルラミウム(セントオールバンズ)の3都市を次々に焼き払いました。当時ローマ軍主力はウェールズ北西部のアングルシー島(モナ島)でドルイド勢力の掃討にあたっており、対応が後手に回ったことも反乱拡大の一因とされています。
最終的にローマ総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスが率いる軍が、数で大きく劣りながらもブーディカ軍を「ワトリング街道の戦い」で撃破し、反乱は鎮圧されました。ブーディカ自身はその後まもなく死去したとされ、毒を飲んで自ら命を絶ったという説が広く知られていますが、断定的な史料は残っていません。この反乱を機に、ローマは一時ブリテンからの撤退も検討したと伝えられますが、最終的には支配継続を選び、以後およそ350年にわたる統治体制の礎が築かれていきます。
ローマ化する社会―道路・都市・浴場

反乱鎮圧後、ブリタンニア属州は本格的なローマ化の時代を迎えます。属州各地を結ぶ整備された道路網(現在のイギリスの主要幹線道路の一部は、この時代のローマ街道を起源としています)が張り巡らされ、ロンディニウムは属州随一の商業都市として発展しました。紀元80年頃には、フォルム(公共広場)やバシリカ(公会堂)、総督邸、円形闘技場まで備える都市に成長していたと考えられています。
各地には属州総督邸や富裕層のための「ヴィラ(荘園邸宅)」も建設され、モザイク床や床暖房設備(ハイポコースト)を備えた邸宅も見つかっています。また、現在のサマセット州バースにあたる「アクア・スリス」では、ケルトの女神スリスとローマの女神ミネルウァを結びつけた公衆浴場・神殿複合施設が建設され、属州各地から人々が湯治に訪れる保養地として栄えました。
ハドリアヌスの長城―帝国の北限を画す
属州の版図が北へ拡大する一方で、現在のスコットランドにあたる北方には、ピクト人をはじめとする勢力の抵抗が続き、ローマの実効支配は及びませんでした。紀元122年、皇帝ハドリアヌスは属州の北限を明確化するため、東西を横断する大規模な防壁「ハドリアヌスの長城」の建設を命じます。全長約118キロメートルにおよぶこの長城は、砦や監視塔を伴う軍事施設であると同時に、通行や交易を管理する境界線としての機能も担っていたと考えられています。
その後、ハドリアヌスの後を継いだアントニヌス・ピウス帝の時代には、さらに北方に「アントニヌスの長城」が築かれましたが、こちらは維持が難しく、比較的短期間で放棄され、ローマの実質的な北限はハドリアヌスの長城に落ち着きました。現在も長城の遺構の多くが現存しており、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
ローマ支配の終焉―紀元410年
4世紀に入ると、ローマ帝国全体が北方・東方からの度重なる侵入や内部の政治的混乱に見舞われるようになります。ブリタンニア属州でも、サクソン人・スコット人(アイルランド方面の勢力)・ピクト人などによる侵攻が相次ぎました。ローマ帝国本国もまた西ゴート族などへの対応に追われ、ブリテン島の防衛にまで手が回らない状況が続きます。
紀元410年、属州側が本国に軍事的支援を要請した際、皇帝ホノリウスが「各都市は自らの防衛にあたるように」という趣旨の返答をしたとされ、これが慣例的に「ローマ支配の終焉」を象徴する出来事として扱われています。ただし、この書簡の解釈や、そもそもブリタンニア宛てのものであったかどうかについては研究者の間でも議論が続いており、絶対的な「終了年」というよりも、数十年かけて徐々にローマ的な統治・経済システムが機能しなくなっていく過程の一つの節目として捉えるのが実態に近いとされています。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 紀元43年 | クラウディウス帝の命によりローマ軍がブリテン島に上陸 |
| 紀元51年 | 抵抗を続けていたカラタクスが捕らえられる |
| 紀元60〜61年 | ブーディカの反乱。3都市が焼き払われる |
| 紀元122年 | ハドリアヌスの長城の建設が始まる |
| 紀元410年 | ローマからの支援が絶たれ、属州支配が事実上終焉 |
ローマ支配下で使われた主な用語
ブリタンニア ローマ帝国がブリテン島に設置した属州の名称。現在の「Britain」の語源にもなっています。 コロニア 退役ローマ兵に土地を与えて建設された植民市。カムロドゥヌム(コルチェスター)などが該当します。 ロンディニウム 現在のロンドンにあたる、ローマ時代に築かれた商業都市。属州随一の規模に発展しました。
この時代の名残は今のイギリスのどこに見られるか


ローマ支配の痕跡は、現在のイギリスの街や地名に数多く残されています。「-chester」「-caster」で終わる地名(コルチェスター、マンチェスター、ランカスターなど)の多くは、ローマ軍の駐屯地を意味する「カストルム」に由来するといわれています。また、バースのローマ浴場跡やロンドンの遺構、ハドリアヌスの長城沿いのトレイルなどは、現在も見学可能な観光名所として親しまれています。留学中に鉄道や車で少し足を延ばせば、こうした古代の遺跡を実際に訪れることができるのも、イギリス留学ならではの魅力の一つです。


