

前回は、ヴァイキングの侵攻によってアングロサクソンの王国が次々と陥落し、唯一ウェセックス王国だけが抵抗を続けた様子をご紹介しました。その抵抗の中心にいたのが、今回の主役であるアルフレッドです。彼は単なる「戦に強い王」ではなく、その後のイングランドの形を大きく決定づけた人物でもあります。
目次
まず整理:この時代に何が起きたのか
- 誰の話か→ウェセックス王アルフレッド(849年〜899年)
- 何をしたのか→ヴァイキングからの逆襲に成功し、国の守り・法律・教育を立て直した
- 何が起きたのか→「イングランド」という一つの国にまとまっていくための土台が、このときに作られた
生い立ちと即位―末っ子の王子だった少年時代
アルフレッドは紀元849年、現在のバークシャー州ワンテージで生まれました。ウェセックス王エゼルウルフの5人の息子のうち、最も年下の子どもです。本来であれば王位を継ぐ可能性は高くなかったとされていますが、兄たちが次々と若くして亡くなったことで、紀元871年、21歳のときにウェセックス王の座に就くことになりました。
即位する直前の871年、アルフレッドは兄エゼルレッド1世のもとで軍を指揮し、「アッシュダウンの戦い」でヴァイキング軍を打ち破るという経験もしています。王として即位した時点で、すでに実戦経験を積んだ指揮官だったわけです。
絶体絶命の冬、そして反撃へ
前回ご紹介したとおり、紀元878年1月、ヴァイキングの指導者グスルムによる奇襲を受け、アルフレッドは湿地帯アセルニーに身を隠すところまで追い詰められました。しかし、そこから態勢を立て直し、同年5月の「エディントンの戦い」で勝利を収め、グスルムに「ウェドモアの和議」を結ばせることに成功します。
この経験は、アルフレッドにとって大きな転機になったと考えられています。二度と同じ危機を繰り返さないために、彼はこの後、国の仕組みそのものを立て直す改革に乗り出していきます。
国を守る仕組みづくり―「バーラ」と海軍
アルフレッドが特に力を入れたのが、防衛システムの整備です。彼はウェセックス領内に「バーラ(burh)」と呼ばれる要塞化された町を数多く築きました。これは、敵の襲撃があった際に住民や兵士がすぐに逃げ込める、城壁で囲まれた拠点です。配置の工夫によって、ウェセックス領内のどこにいても20マイル(約32キロ)以内にバーラにたどり着けるようになっていたといわれています。
このバーラを維持するための兵士を確保・給与を支払うために、アルフレッドは税制も見直しました。さらに、ヴァイキングが海から襲ってくることへの対策として、新しい設計の船を使った海軍の整備にも着手しています。これらの取り組みから、アルフレッドは「イングランド海軍の創始者」と呼ばれることもあります。
法律を整える―「ドゥームブック」の編纂
アルフレッドは軍事面だけでなく、法制度の整備にも取り組みました。それまでケント・ウェセックス・マーシアなど、それぞれの王国がバラバラに持っていた法律を集め、自身の新しい規定を加えてひとつの法典にまとめ上げました。これは「ドゥームブック(Domboc)」と呼ばれています。
この法典は、キリスト教の聖書(モーセの十戒など)の精神と、それまでのアングロサクソンの慣習法を組み合わせたもので、後の時代のイギリスの法律にも影響を与えたとされています。
学問の復興―「読み書きのできる王」
アルフレッドのもう一つの大きな功績が、学問・教育の立て直しです。当時、長年のヴァイキングの侵攻によって、多くの修道院(=学問の中心地でもありました)が破壊され、ラテン語の読み書きができる聖職者も減少していました。
アルフレッド自身、実は子どもの頃は読み書きができなかったとされていますが、成人してからラテン語を学び、グレゴリウス1世の『牧会規定』やボエティウスの『哲学の慰め』といった重要な書物を、みずから英語(古英語)に翻訳したと伝えられています。また各地から学者を宮廷に招き、子どもたちに英語での読み書きを教える取り組みも進めました。「国の指導者が自ら学問に取り組む」という姿勢を示したことは、当時としては非常に珍しいことでした。
886年、ロンドン奪還と「アングロサクソン人の王」
紀元886年、アルフレッドはヴァイキングの支配下にあったロンドンを奪還し、都市として再建します。この出来事をきっかけに、ウェセックス以外の、まだヴァイキングの支配下に入っていないアングロサクソン人たちからも、アルフレッドは指導者として認められるようになりました。
ここでアルフレッドが名乗るようになった称号が「アングロサクソン人の王(King of the Anglo-Saxons)」です。これは「ウェセックス王」よりも広い、デーンロウの外側に住むアングロサクソン人全体を代表する称号でした。
注意しておきたいポイント
アルフレッドは生涯を通じて「イングランド王」を名乗ったことはありません。実際に「イングランド王」と呼ばれる最初の人物は、アルフレッドの孫にあたるアゼルスタンで、紀元927年のことです。つまりアルフレッドの功績は、「イングランドという一つの国そのものを作った」というより、「その後の統一につながる土台を築いた」と捉えるのが史実に近い理解です。
その後―娘・孫へと受け継がれた統一への歩み
紀元899年10月26日、アルフレッドはウィンチェスターで没し、息子エドワード(エドワード長兄王)が後を継ぎました。さらにアルフレッドの娘エゼルフレッドは、隣接するマーシア王国に嫁ぎ、夫の死後「マーシア人の貴婦人」として自らマーシアを統治し、兄エドワードと協力しながらヴァイキング支配地域の奪還を進めていきます。
そして紀元927年、エドワードの息子(アルフレッドの孫)にあたるアゼルスタンが、デーンロウを含むイングランド全域を初めて一人の王として統治することになり、「最初のイングランド王」と呼ばれるようになりました。アルフレッドが築いた防衛・法律・学問の基盤は、こうして孫の代に実を結んだといえます。
この時代の名残は今のイギリスのどこに見られるか
アルフレッドが築いたバーラの多くは、そのまま現在のイギリスの町や都市へと発展していきました。たとえば「-bury」で終わる地名(キャンタベリーの一部など)には、この「burh(要塞都市)」の名残が見られます。また、ウィンチェスターには現在もアルフレッドの大きな像が立っており、イギリスの歴史上「the Great(大王)」の称号を正式に与えられている唯一の君主として、今も高く評価されています。彼が整備した「法の下の統治」や「教育を重視する姿勢」は、現在のイギリスの国民性の源流の一つとも語られています。


