
「ケルト」と聞くと、渦巻き模様の装飾品や、神秘的な儀式を行うドルイドの姿を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。イギリスの歴史シリーズ第2回では、ストーンヘンジの時代からおよそ2,000年ほど時代が下った「鉄器時代」のブリテン島に生きた人々、いわゆる「ブリトン人」の姿を見ていきます。実はこの分野、ここ数年の遺伝学研究によって、これまで教科書に書かれてきた「ケルト人の大移動」というイメージそのものが、大きく見直されつつあるところなのです。

目次
鉄器時代の始まり — そもそも「ケルト人」とは何者か
ブリテン島における鉄器時代は、紀元前800年頃に始まったとされています。青銅よりも硬く加工しやすい鉄の道具が普及したことで、農地の開墾や道具づくりが進み、各地の集落が力を蓄えていきました。この時代のブリテン島の人々を、私たちは慣習的に「ケルト人」と呼びますが、注意しておきたいのは、これは単一の民族や国家を指す言葉ではないということです。「ケルト」とは本来、共通の祖語(プロト・ケルト語)に由来する言語グループを指す言語学上の分類であり、当時のブリテン島は、ブリソン語派(後のウェールズ語・コーンウォール語・ブレトン語につながる言葉)を話す複数の部族が分立する社会でした。
「ケルト人の大移動」という通説の見直し
20世紀を通じて広く信じられてきたのは、「中央ヨーロッパのハルシュタット文化やラ・テーヌ文化を担う『ケルト人』が、紀元前500年頃〜紀元前300年頃の鉄器時代に大挙してブリテン島に押し寄せ、先住民を置き換えるか同化させた」という説です。ラ・テーヌ様式の華やかな渦巻き文様の金属工芸品が各地で見つかることも、この説を後押ししてきました。
しかし2021年に発表された大規模な古代ゲノム研究では、まったく異なる姿が浮かび上がりました。ブリテン島南部の人々の遺伝的な構成が大きく塗り替えられたのは、従来考えられていたような鉄器時代の一度きりの「侵略」ではなく、それより1,000年近くも早い、紀元前1300年〜紀元前800年頃の後期青銅器時代にかけて、おそらくフランス方面から緩やかに続いた人の流入によるものだった、というのです。この移住の過程で、後にケルト系言語となる言葉がもたらされた可能性が高いと考えられています。一方で、教科書的なイメージにあるような、鉄器時代における大規模な軍事的侵略を示す明確な考古学的証拠は見つかっていません。
つまり現在の学術的な見立てでは、「ある日突然、大陸からケルト人が攻め込んできた」というよりも、「もっと以前から続いていた人と文化の緩やかな行き来の中で、気づけば言語や工芸様式がケルト的なものに変わっていた」という、時間をかけた変化として捉えるのが実態に近いようです。この点は今も研究者の間で議論が続いており、断定はできない分野であることを踏まえておいてください。

ブリトン人の社会 — 部族・丘の砦・鉄と農業
ローマ側の記録によれば、カエサルが遠征した紀元前1世紀頃のブリテン島には、少なくとも20を超える部族が割拠していました。テムズ川北岸を拠点とした「カトゥウェラウニ族」、その東に接した「トリノヴァンテス族」、後にローマへの反乱で知られる「イケニ族」、南部の海岸地域を治めた「ドゥロトリゲス族」などが代表的です。南東部の部族は大陸との交易で栄え、少なくとも7つの部族が独自の硬貨を鋳造していたことも分かっています。一方、南西部やウェールズの部族は、錫や銅といった鉱物資源を背景に力を持っていました。
この時代を象徴する遺跡が、各地に築かれた「ヒルフォート(丘の砦)」です。丘の斜面を幾重にも掘削し、土塁と堀で防御を固めたこれらの砦は、単なる軍事拠点ではなく、市場や祭祀の場としても機能する地域の中心地だったと考えられています。ドーセット州の「メイデン・キャッスル」は、その中でもヨーロッパ最大級の規模を誇る代表的なヒルフォートとして知られています。人々は木造の円形住居(ラウンドハウス)に住み、麦などの穀物を栽培し、牛や羊を飼育する農耕生活を送りながら、金属細工、機織り、宴と音楽・詩の朗誦といった豊かな文化的生活も営んでいました。


ドルイドと信仰 — 文字を残さなかった人々
ブリトン人の宗教的指導者として知られる「ドルイド」は、カエサル自身の著作をはじめとするローマ側の史料に登場します。それによれば、ドルイドは祭祀だけでなく、法律の裁定や若者への教育、さらには医療的な知識の伝授までを担う、社会的に高い地位を持つ存在だったとされています。ただし、ドルイド自身が文字による記録を残さなかった(あるいは意図的に教えを文字化しなかった)ため、その実像の多くは敵対する立場にあったローマ人の記述を通じてしか伝わっていません。そのため、後世に脚色されたイメージと史実の区別が難しく、断定的に語ることが難しい分野でもあります。
カエサルの遠征(紀元前55年・前54年)— ローマとの最初の接触
ガリア(現在のフランス周辺)の征服を進めていたユリウス・カエサルは、ガリアの部族に加勢するブリテン島の部族を牽制するため、紀元前55年と前54年の2度にわたってブリテン島への遠征を行いました。これは本格的な征服ではなく、いわば威力偵察のような性格の強い遠征でした。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 紀元前55年8月 | カエサルが約1万人の兵とともにケント沿岸に上陸。悪天候もあり大きな戦果を得られず、短期間で撤退 |
| 紀元前54年7月 | 前回よりはるかに大規模な軍勢(約2万5千人)で再上陸。テムズ川を渡り、カトゥウェラウニ族の指導者カッシウェラウヌスを降伏させる |
| 紀元前54年以降 | 貢納の約束を取り付けて大陸へ帰還。以後およそ100年間、ローマ軍が本格的にブリテン島へ攻め込むことはなかった |
カエサルは戦果として貢納を約束させたものの、占領のための軍を残さずに引き上げたため、この遠征でブリテン島がローマの支配下に入ったわけではありません。しかしこれを機に、ブリテン島の存在はローマ世界に広く知られるようになり、南東部の部族社会とローマとの間で交易や外交を通じた結びつきが強まっていきます。この関係が、およそ100年後の紀元43年、皇帝クラウディウスによる本格的な征服、すなわち次回取り上げる「ローマン・ブリテン」の時代へとつながっていくのです。
この時代の名残は、今のイギリスのどこに見られるか
鉄器時代のブリトン人が話していたブリソン語派の言葉は、現在もウェールズ語、コーンウォール語、そしてブルターニュ地方(フランス)のブレトン語として受け継がれています。ウェールズでは今も道路標識が英語とウェールズ語の二言語表記になっており、ウェールズ語での教育や、詩・音楽の祭典「アイステズヴォッド」といった文化的な催しも盛んです。イギリス留学中にウェールズを訪れる機会があれば、こうした「ローマ化されなかった側のブリテン島」の姿に触れることができるでしょう。
また、ドーセットのメイデン・キャッスルをはじめとするヒルフォートの多くは、現在も丘の地形として英国各地に残り、ウォーキングコースとして親しまれています。「ケルト」という言葉自体、実際の歴史的実態以上にロマンティックなイメージで語られがちな分野ですが、その背景にある学術的な議論の複雑さを知っておくと、イギリスという国の成り立ちをより深く理解する手がかりになるはずです。
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